心理的安全性と独りよがり - 個人の境界と組織の境界をメタ的に考える


心理的安全性について、ここ数年ぐらいずっと疑問に思っていた事がだいぶまとまってきたので、まとめてみます。
ただ、それぞれの事柄についてきちんと裏とりをしているわけでもないので、議論の種になればよいかも、ぐらいの思いです。
色々と考えているうちに、次のような論点にまとまるのかな?という感じがしましたが、一旦書き溜めたものをすべて書くことにします。

論点

  • 組織が心理的安全性を高く保つべき一方で、個人が極端にそれだけに偏ると責任から離れた方向に進む可能性がある
    • 特に開発組織だけがある方向に進み始めると、世間的に違和感のある方向に進んだり、開発進捗を生じる事を阻害する要素をすべて障害と捉えたりしがちである(まちがったやり方のスクラムなど)
  • いわゆる心理的安全性はチームの"内側向き"の観点だが、これに対応する"外側向き"の心理的安全性に相当する概念、あるいはチーム間・組織間の心理的安全性に相当する観点でも考察した方がよいのではないか
  • 心理的安全性と成果の因果関係は、心理的安全性が保てるチームである時点で既に個人が主体的に振る舞う素養を有している(これは素朴な能力的に優れいているとは限らない)のではないか

理想的な組織のあり方と心理的安全性

成長する組織がどのような組織であるべきか?という事について、よく語られることの一つに「心理的安全性を保つ」という事があります。
自分がどのような事を主張しても根本的な人格が否定されず、ステータスやキャリアなどを傷つけることもない。安心して自分をさらけ出せる。そのような意味での安全性を維持する。細かい言い回しについては色々とあると思いますが、概ねそのような意味です。
病院の医療事故に関する調査で、心理的安全性が低かったり、あるいは権威勾配のようなものがある組織の方が、心理的安全性が高く、権威勾配の少ない組織よりも多く医療事故を起こしていて、報告されていない、というようなものがあると言われています。
そのような文脈で、特にエンジニア界隈(?)においては、例えば「失敗なんて気にするな」というような言い回しが出てきたりします。

心理的安全性を組織に関する事実として見れば、その通りかとも思いますが、しかし本当に「失敗なんて気にするな」なのでしょうか?
(もちろん、心の底から「心配なんて気にするな」ではなく、語弊もあるだろうということは承知の上の検討です。)

電車の事故に置き換えて考えてみる

もし電車の事故が起こって、例えば自分の子供が死んだとして、その運転手や周りの人たちが「失敗なんて気にするな」というマインドで行動していたら、私はついうっかりその運転手を✗✗してしまいます。

医療の事故に置き換えて考えてみる

もし医療の事故(難しい手術の失敗などではない、事故)が起こって、例えば自分の子供が一生寝たきりになったとして、その医療関係者や周りの人たちが「失敗なんて気にするな」というマインドで行動していたら、私はついうっかりその医療関係者を✗✗してしまいます。

自分の狭量さを思い知る

私、心狭いな。。。昔から知ってたけど

でも、私ほど心が狭い人でなくても、仮にここまでの事ではなかったとしても、取り返せない失敗って許せなくないですか?
組織の効率と、たまたま当事者になった人の気持は無関係だし、そんな事で特定個人を責めても仕方ない。それは事実としてはそうなのかもしれません。
実際、私の過去において、人を憎むほどの取り返せない失敗を受けた事はほとんどなく、仮にあったとしても忘れて生きるのが幸せだとは思います。
しかし、それって人間として何か違わない?とどうしても思ってしまいます。

自分自身は狭い心と付き合っていくしかないのかなーとも思ってはいるのですが、やっぱりそういう問題ではないのかな、と思うのです。

責任を持って心理的安全性を利用するのか、無責任に心理的安全性にもたれ掛かるのか

組織としては、確かに、例えば失敗を隠蔽しようと思うほどの体制は間違いなく害悪として作用しているでしょう。あるいは、ネガティブなイメージだけで作業をしていても、個々の能力を十分に尽くすという意味での満足な成果は得にくいでしょう。
しかし一方で、「失敗しても許される」という事によりかかって悪用してしまうと、それはそれでただの堕落した組織になってしまいます。たとえば…
チームメンバーは仲良しでゆるい。でも、仕事は何もしていない。あるいは、何もしなくなる。会社・チームとしての目標はある。他の部署からのリスペクトも受け、かなりの優遇的措置を受けている。給与も相場の1.5倍ぐらい。でも、例えば他社の仕事をしたり、居眠りだけで過ごしたり、5分で終わる作業を1日分の成果として上げる。外部から評価はできないだろうけど、内部から見て満足な成果を上げているとは言えない状態で。

なんでやねん。。。

心理的安全性というのは、組織として重要な要素だとは思うのですが、しかしそれは個人の責任が消失するという事を意味するものではありません。
むしろ、自由に物を言える組織であるからこそ、言ったことには自分自身で責任を持たないといけないのです。逆に、そうであればこそ、自由に物を言える組織を維持できるとも言えます。

例えば、失敗について

はじめに述べたような失敗(事故)について考えてみます。
失敗を「必要以上に悔やむこと」には、確かに意味はないでしょう。
でも、失敗を避ける、繰り返さないと強く思って反省をして対策をすることは重要です。
統計的な議論としては、組織として仕事をするにあたってはいつか誰かが失敗をするでしょうから、特定個人を必要以上に責める事にも意味はありません。それでも、個人は失敗をした立場としての振り返りがあってしかるべきで、周囲の人も失敗したやつだからと蔑んだりするのではなくて自分たちの為し得た失敗と受け止めて繰り返さないように振り返りをする、そういう事ではないかと思います。

他者の尊重と、お互いの思考から漏れる「気づいていない責任」と

思う事をはっきりと言っても、人格を否定されない。それは重要なことですが、「私は私、あなたはあなた」で済ませてしまえないような事もしばしばあります。
「私は私の思うように頑張るから、あなたはあなたの思うように頑張って」という事を、それぞれの人が全体像を見ずに個人の作業レベルで考えてしまったら、どうなるでしょうか。

組織はその目的を達成してこそ存在する意味があります。例えば、仕事を全うしてそれを営利に変えてこそ意味があります。しかし、「自分の仕事はこういうこと」というのを参加する各人が自分自身の視点だけで決めて、かつ他の人の視点についても十分に考えなかったのでは、それは達成できません。お互いの視点で見て得られるものをうまく統合して、お互いの仕事を再定義する事によって、はじめて全体をカバーする事ができます。
これは、自分の視点だけでは気づいていなかった仕事を再定義するという事であり、気づいてなかった責任に気付くという事でもあります。

そのような「気づいていない責任」というものが、世の中には往々にして存在します。例えば、新規事業を始めようとして、ある程度作り込んでから、実は気をつけないといけない法律、サービスの脆弱性対策、といった事に気付くこともあるでしょう。

本当の意味で心理的安全性が高い組織であれば、仮に気づいていない責任があるかも?という違和感が誰かの頭をよぎったときにはすぐさま口にできて、周りの人もそれについて正しく議論をして、その集団にとっての最善の結論を出せるでしょう。このような事例を一つとっても、心理的安全性は高い方がよいのだろう、と思えます。

集団vs集団の"心理的安全性"と外圧

しかし、その集団の中の誰も違和感を持たなかったときには、どうなるでしょうか。
"表面的に"心理的安全性が高いだけの組織では、特に向上心のようなものを持っていなくても生きていけるので、そもそもそのような事を思う必要も、改善する必要もありません。改善したければしてもいいし、それは尊重するけど、でも私(我々)は改善しなくていいよ、という結論を出す事もできます。
そのような考えに陥りがちな集団は、自分たちの中で問題として認識できる違和感しか拾えないという点においては、変化に対して脆弱であるとも言えます。個人が他者を尊重することで多くの違和感を拾えるのと同じように、ある集団が別の集団の価値観を尊重することで、外部の集団からの違和感を拾えるようになります。

心理的安全性が高いことと、外圧あるいはプレッシャーが無い事は混同されがちですが、プレッシャーがなければ今挙げた例のように堕落する場合もあります。

プレッシャーに直接触れる人・チームとの温度差

会社は、一般には組織外のお客様が居て初めて成立するものです。
そうすると、会社組織はどこかで必ず組織外の人とのやり取りが発生します。
そのような場合には、はじめに述べたような事故や失敗が影響するようになります。
この世のすべての人がそうした失敗を許容できるような状態にならない限りは、お客様から叱責を受ける事や、失敗で失ったお金に対する責任というのはどこかに必ず残ります。制度上究極的には、しばしば会社の連帯保証人になっている社長の責任となりますが、社長に限らず誰かはそうした外圧と向き合うことになります。

そうした外圧を感じるチームにあって、様々な外のつらい世界に触れている中で、例えば特定の外圧に触れないチームが「失敗なんて気にするな」と言っていたとしたら…
それは「正しい」かもしれないですが、外からは「それじゃよくないよね」という事を言いたくなります。

そのとき、どのように振る舞うか?

仮にチームの中で全員が「そんな外圧には屈しない!」「それでも失敗なんて気にしないのが効率が良いのだ!」というような事を思ったとすると、これは内的には心理的安全性が高いと言えますが、そのチームの外の世界と敵対的である(外の世界から受け入れられていない)という点において、問題が残っているとも言えるでしょう。
(もちろん、八方美人的にすべての世界に対して友好的である必要は無いとは思いますが)

外圧をどう消化すべきなのか

私はこのことに対してはっきりとした答えを持っている訳ではないです。
大きくまとめれば、「それが目的を達成するにあたって本質的か」という事を考えながら、積極的に物事を前に進めるための提案をして、独りよがりにならないように気をつけながら、バランスよく事を運ぶ、ということになるのかなと思います。お互いを尊重しながら。
自分という個人が見ている範囲は基本的に狭いものだという謙虚な気持ちを持ちながら、目的を達成するためにはどうするかを相手を尊重しながらお互いに真剣に目的を辿って考えて、その結果出た結論については相互に信頼を保って仕事をする。(HRT)
それを実践できるように、信頼に足る責任を持つ。
そういう事なのかなあと思っています。
もちろん、時にはどうにもならない乱暴や無理な状況みたいなものもあるかもしれませんが、基本的なスタンスとしてはそういう事なのかな、と。

因果の向きは、どちら?

ところで、心理的安全性と成果、あるいは責任と心理的安全性の関係性について、少し別の角度から眺めてみます。

人間の振る舞いは、置かれた状況や環境によって変わる。
力を発揮できる環境もあれば、力を発揮できない環境もある。
それは確かに紛れもない事実です。
優秀な上司、あるいはマネジャーの下では、同じ人であっても能力を一層発揮できる。
それもまた事実です。

しかし、本当に「心理的安全性が高ければ直ちに成果が挙がる」といえるのでしょうか?
例えば、個人としての責任を全うできる人たちが集まり、自然に心理的安全性が高くなっていたという事はないでしょうか?

完成した組織(?)を見て、その機能性がどのような仕組みで回っているか、という事を分析することはできます。
よく成果を上げる組織を分析して、心理的安全性がどのように機能して成果に貢献しているか、という事は分析によって示される事実であると思います。

しかし、それは因果関係について述べたものではありませんよね。実際、どうなんでしょうか?
(このような事を言っておいて、私は答えを持っている訳ではありません)

むすび

DevOpsやSREという言葉が流行/浸透してきて、開発と運用がより密接に関わりつつあるなか、単に決められた領域の中に収まる自分の仕事だけを見てこなしていたのでは、目的を見失ったり属人化する事によって、情報の非対称性が生じ、広義の技術的負債が蓄積するような状況になりつつあるかと思います。
特に、一昔前は現場担当者が神エクセルを作ってできていた"(広義の)技術的負債"を、開発者も作り込みつつあります。(謎の仕様の長大なプログラムなど。昔からあるのかもしれませんが)

色々なビジネス書では、目的不在で作り込まれた無駄な業務を見直す事などが指摘されていますが、それはエンジニアの仕事でも同じです。
心理的安全性それ自体はとても大切ですが、目的が前提としてあるべきなのかな、という事を最近思うことがあり、このような形で記事としてまとめました。

独りよがりにならないように、本当の目的を大事にしよう!

参考:

心理的安全性ガイドライン(あるいは権威勾配に関する一考察)
2つのDXと技術的負債-YAPC Tokyo 2019
一般向けタイムマネジメントの本から、エンジニアの最新の課題(YAPC2019)に辿り着くまで