【計算と哲学】世界は計算だ!


シミュレーテッド・リアリティ水槽の脳という考えがあります。
これは私たちの生きている世界は「現実」ではなく、コンピューターのシミュレーションだとかそういう類のものだという考えです。
だいぶ通じ辛くなりましたが、映画マトリックスの設定がそういう話です。

さて、この記事は「世界は計算だ!」です。
まさにそういう主張に聞こえますね。でも違います。
私が主張するのは「シミュレーションでもそうでなくても同じことだ。」「だから、世界は計算(まで)だと考えるべきだ」という話です。

いくつかの誤解

  • 無理数の演算

シミュレーテッド・リアリティに対するよくある反論として「物理法則には無理数の計算が存在する」というものがあります。
これはシミュレート可能という点を否定するものではありません。
単純に我々の想定を遥かに上回る桁数で計算してるのでも、あるいは必要な時には必要なだけ桁数を増やして再演算するというものでも良い。
さらに言えば計算機の概念を拡張し、無理数に対する演算という機能を持つと考えても良いです。
無理数の演算機能を持っていても計算機と呼ぶのは無理はないでしょう。

  • 量子力学は非決定論的

古典力学あたりまでなら「世界はシミュレーションされている」という話はシンプルでした。
しかし量子力学は非決定論的で、つまり真のランダムのようなものが存在します。
この対処をシミュレーションで行う方法はいくつかあります。

  1. 非局所的な隠れた変数
  2. 多世界解釈 (全パターン実行する)
  3. 量子コンピューターのようなものを用いる
  4. 乱数生成器を持つ計算機を用いる

実際の物理法則によらず計算機としてモデル化するという立場からすると、「計算機」という概念をいくつか譲歩して乱数生成器を持つ計算機あたりとした方が良いと思います。
入力専用の神託テープを持つ信託機械というモデルがあり、これでもまだ計算機モデルと呼べます。
というか量子コンピューターも普通に計算機モデルでしょう。

  • 計算機

計算機と言われれば、物理世界に当たり前に存在する計算機を思い浮かべます。そりゃそうですよね。
しかし計算機という時、必ずしも物理的な実体を持っていなければいけないわけではありません。
世界がまさに計算機モデルのように振る舞う、その外部には何もない、それでも計算機です。

シミュレーターの住人はどう考える?

思考実験としてシミュレーターの住人は世界をどう考えるでしょうか?
例えば、ライフゲーム(Conway's Game of Life)はチューリング完全です。
ですからライフゲーム世界にかなり知的な存在も仮定できます。

世界は広い!

彼らも我々と同じように「こんなに広い世界をシミュレーションできるはずがない」と感じるでしょう。
実際彼らの世界にもコンピューターは存在し、そこでの計算資源は極めて小さい。
彼らが想像する計算機も、その貧弱なイメージです。
感覚としてシミュレーションなんて想像がつかないのではないでしょうか。

我々の感覚では普通のPCでも32GBのメモリや数GHzのCPUがありますし、それでも知識がなければ莫大だと感じるでしょう。
ライフゲームで世界について考えられるくらいの知能を実現する為に必要な計算資源は実際我々の感覚としても莫大ですが、とはいえおそらく実現可能でしょう。

物理法則はシンプルだ!

また「物理法則がシンプル」だから、世界は初めからそのようにあったと考えるかもしれません。
実際に我々が計算資源を使うなら単なるライフゲームで知性が目覚めるのをひたすら待つより、それなりに複雑で面白い世界、ゲームなりシミュレーションなりをやるでしょう。
があり得ないことではありません。

ライフゲームは無理数が出てきたり非決定論的だったりしないので不適当ですが、別にそういう世界で知性が産まれるくらいのシミュレーションもその内できるようになるでしょう。
結局のところ、どんな世界であってもシミュレーションで実現することは可能です。
計算資源と意思とプログラミングの難しさだけがハードルです。

どんな計算機か?

一方で彼らが計算機の中だと気づいたとします。
どんな計算機だと思うでしょうか?

実際のところ、どんな計算機だと主張したとしても正しくはありません。
我々は同じ状態を二つの異なる計算機で実現することができます。
どんな主張をしたところで否定が可能です。
普通の汎用計算機だと主張するなら専用計算機で計算してやって否定することができますし、デスクトップPCだというならサーバーで実行してやることもできます。

言ってみれば計算機の内部の知性にとって、計算機そのもの、あるいは計算機の外部とは観測の外のことなのです。
言い換えれば彼らの世界に属していない事物だと言えるでしょう。
議論しても仕方がないですしどちらでも良いことです。

ただ彼らが観測した計算がどこかで行われていること、その計算資源が存在することだけは確かです。
必要な計算資源を下回る計算機ではそのシミュレーションを実行することはできません。同語反復。

結論

ですから、我々がこの世界について言えるのも「我々が観測した計算が存在する」「この世界の計算資源は我々の観測を上回る」だけです。
この2つは懐疑の余地はありますが、物質の存在などよりはるかに確かな事実です。
唯物論を信じるのは非合理的です。

物質の存在

では「物質の存在」、現代的な意味では様々な物理モデルで記述される原子なり素粒子なり弦なりの存在はどう考えるべきなのでしょうか?
私はそれらが存在しないと言うのでしょうか。
違います。

物理学が示すそうした物理モデルに対応する「物」の素朴な存在は、「考えられる計算機モデルの一つ」です。
あるいは「我々の世界に対する最も合理的な計算機」とまで言っても良いでしょう。
おそらく単純に物理学者の主張は真実です。
しかしそれはあり得る計算機の一つでしかないし、我々の世界に属する問題でもない。
どうであろうと断言はできない。観測の対象外。
そういうことです。

メリット

つまり「世界は計算である」という主張は考え方を示しただけで、世界について何も語っていない。
そういうことになります。
何の意味があるのでしょうか?
いくつかあります。

  • 量子力学を「理解」する

リチャード・ファインマンは「量子力学となると、これを本当に理解できている人はいない。」と言ったそうです。
特に初学者にとって量子力学の諸概念は理解しがたいものです。

しかし「この世界は計算だ」と考えてしまえば、「要はそういうアルゴリズムで世界が回っている」程度の話で頭にすっと入ってきます。
それでも難しいものは難しいですが、高校まで習ってきた古典物理学の延長で混乱しなくて済みます。
量子力学の最初の講義辺りで「量子力学を理解できたと感じたならそれは勘違いだ」みたいな話をするよりは、「世界は計算だという考え方がある」と話した方が平均点も高くなるんじゃないでしょうか?
とにかく「物の実在」という概念は、素朴な振る舞いまででなければ混乱の素でしかないのでよくないです。

別に理論自体の難易度が下がるわけではないですが。

  • なぜ世界に数学や論理が適用できるのか?

世界はおおよそ計算だと考えると、「なぜ世界に論理学の推論規則が適用できるのか」だとか「数学が適用できるのか」と言った疑問にもあっさり答えられます。
計算機の上ならば、還元し行けばそんなのは当たり前です。
数学の法則が自然の中に見出せるのも当たり前です。
結局は計算機の演算はなぜそう振る舞うのか、なぜ存在するのかという問題に変わるだけですが理解した気にはなります。

宣伝

私のアカウントは以下の通りです。

1日目も宣伝しましたが、この記事の内容は以下の本でも論じたような気がします。
2017年なので少し古いです。
Kindle Unlimitedを利用中の方は無料で読めるのでぜひ御一読ください。