文字コードを再設計しようと考えて、試作をしている。


文字コードを再設計しようと考えて、試作をしている。
文字コードにはいろいろあるが、ぜんぜんだめだと思ったのは、基本的に漢字を音読みで分類している、ということだ。基本がだめだと感じた。それは一二三四五六七八九〇十百千壱弐参と上中下を文字コードで並べたときの並び順を見れば明らかだ。
漢字には、そうでなければ不自然な順番をもつものがあるのであり、その究極が漢数字だ。あるいは上中下だ。漢数字と上中下を文字コードで並べると、どうしようもない結果となってしまう。文字コードはぜんぜんだめだと感じた。
音読みが自然かというと、それに対しても不自然さを感じないわけにはいかないのだった。「牛」は「ぎゅう」、「犬」は「けん」と読んで分類する。これは日常的な感覚からすると、あまりにも不自然に感じるのである。しかもなぜか「猫」は「びょう」ではなく「ねこ」と読んでいる。なぜだ、このいいかげんな混乱は。恣意的といってもいい。
説明できないものは混乱であり、説明できても納得できないことだって山ほどある。ものの並びが思ったとおりでないということは、居心地が悪く、それを長いあいだ見ていると、慣れるよりは混乱して不満がたまってくる。不満のままでいることは不快なので、そのくらいならいっそ自分の満足いくように文字コードを再設計したほうがずっとマシ、ということになるわけだ。
とはいえもちろん、ものを並べることに価値判断はつきものだから、いちいち判断する必要があり、一筋縄ではいかない。
上中下はよいとして、それなら優劣はどうするのかとか、売買はどうするのかとか、月火水木金土日はどうするのかとか、日水金地月火木土天海ではないのかとか、冥はどうするとか、色は色相輪にしたがうのかとか考え始めるとなかなか切りがない。
月曜起こしなのか日曜起こしなのか。単純なルールのほうがよくはあるが、ルールにしたがわない事例のある単純なルールでは混乱の元だ。
意味だけを求めると図書館の十進分類のようになり、それなら五十音のほうが単純だということもある。切りがないということはおもしろいということでもある。試作がどのくらいかかるかはわからないが、楽しんでみよう。